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NHK大河ドラマ 八重の桜 第18回「尚之助との旅」 あらすじ&感想

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NHK大河ドラマ 八重の桜 第18回「尚之助との旅」

限りなくハネムーンな偵察の旅へ出た八重と尚之助。睦まじい二人の旅が、いつまでも続いてほしい・・・
復興にむけて頑張る福島と東北に熱くエールを放つ大河ドラマ”八重の桜”、
共に楽しみつつ、愛の桜前線を拡げていきたいですね!

NHK総合20:00~20:45 八重の桜HP http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/
八重18話1
八重の桜OP、BGMにドゾhttp://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA

第18話あらすじ
会津の防衛に不安を抱いた尚之助(長谷川博己)は、八重(綾瀬はるか)を連れて周辺諸藩見聞の旅に出る。会津若松から白河に至る白河街道の山道を歩き、猪苗代側から登った背炙峠にさしかかったとき、尚之助は粗い息で足を止め、会津がもしもの際は、背炙り山に大砲の鋳造所を作る約束を覚馬としていたことを八重に話す。なるほど背炙山からは会津盆地が一望できる。尚之助はまた、その大砲を、船でどこまで運べるか算段していた。阿賀川に出て越後まで運べるか・・・長州攻めでは都から遥か遠い名もない村が戦場となっていたことから、尚之助はそれを教訓に 考え付く限りのシミュレーションをしていたのだ。会津で戦が起こるなど考えもつかない八重は、尚之助の言葉に不安を抱く。
 二本松に立ち寄った八重たちは、ふいに轟いた射撃音に驚く。「木村砲兵塾」の門額を掲げた屋敷で、二人は 砲術師範をしている木村銃太郎のもと熱心に砲術教練に励む少年隊士たちに出会う。二本松藩では変事に備え、藩士は皆、鉄砲を学ぶようにとの通達が出されていたのだ。素性を明かし請われるままに師範の腕前を披露した八重はたちまち人気者に。 爆音を恐れて目をつむってしまう隊士に、八重は昔の自分の克服法を教える。しかし彼らの銃は旧式のゲベールや火縄銃で、いくら稽古をしても、敵がスナイデル銃のような最新式では太刀打ちできないと,銃太郎は小藩の限界を吐露する。
 
その頃京では、左遷されていた蝦夷地より呼び戻された秋月と オロシアから帰った大蔵が容保に挨拶をしていた。覚馬は二人に近々藩に導入するチュントナーデル銃を見せ、薩摩が長州に入り込んでご公儀の非を唱え 長州の罪を解こうとしていること、会津はいよいよ都から離れられなくなったことを明かす。じっさい薩摩は大阪に千人の兵を送り、ものものしい空気を煽っていた。それと呼応するように、「世間の世直し、ええじゃないか」と歌い踊る「おかげ騒動」が、江戸から四国まで広範囲で湧き起こり、騒動に巻き込まれた覚馬たちは、これも薩摩か長州の仕業ではと疑う。しかし居合わせた商人の大垣屋は、これは凶作と貧しさゆえのうっぷん晴らしだと告げるのだった。
 不穏な空気の中、倒幕の陰謀は薩摩の大久保利通を手先として 山口の桂小五郎(木戸孝允)、京の岩倉との間で着々と進められていた。とりわけ岩倉は慶喜を殺せとの詔書を出し、守護職の容保と所司代を討つ勅書も同時に出そう、と慶喜を揺さぶる過激な作戦に出る。

八重たちが会津に戻ると、尚之助の仕官が許され、八重も権八(松重豊)や佐久(風吹ジュン)と喜び合う。尚之助は早速、各地の見聞録や軍備増強策を提出するが、守護職就任以来かさみ続ける出費により、もはや藩には尚之助の献策を実現させる余力はなかった。
 慶応3年10月、容保と(所司代)定敬が慶喜(小泉孝太郎)の呼び出しを受け密かに登城するや、慶喜はなんと朝廷に大政を奉還すると言い出し・・・

・・・ということで、次回は第19話「慶喜の誤算」です。


※二本松少年隊とは・・・幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊のこと。 戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なため、当時は隊名は無かったが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳くりあげ出兵の許可を出す制度があり、最少年齢の隊士は実年齢12歳であった。戊辰戦争では三春藩、守山藩の裏切りにあい、主力部隊を白河城(口)に派遣していた二本松藩は板垣退助に留守をつかれてしまった。そのとき藩に残っていたのは老兵と少年だけであったが、死を賭して信義を守るは武士の本懐、として 徹底抗戦を続けた。少年兵は新式のスナイデル銃を巧みに使い、大いに西軍を困らせたという。 二本松少年隊は正確には藩内各地に出陣した62名を指すが、江戸で西洋流(高島流)砲術を習得した木村銃太郎指揮下の25名が特に有名で、八重の桜18話で登場した岡山篤次郎(14才)と成田才次郎(13才)も銃太郎指揮の下、激戦区の大壇口で戦ったが、隊士の半数が命を失った。白虎隊の悲劇と同じく、これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。




第18話ぷち・ギャラリー

<限りなくハネムーンな偵察旅行?>

っや、八重さん、ちょっと待ってくださいよ201.gif (ヘタレ尚之助)
八重1802
もうくたびっちゃったのがし? 急がねぇとすぐ昼になっから。
背炙峠・・・ ここは覚馬さんと約束した場所なんです。
八重1803
いざというときは背炙山に大砲の鋳造所を造ると

白河
「おひとついかが?めでたいよ眉は鶴、髭は亀、顎鬚は松、びん髭は梅、顔の下に竹だ」
八重1806
八重にひとつ買ってやる尚之助

二本松 
ズダダダァァーン!!  二本松の少年隊士たちにお手本を示す八重
八重1807
命中! すっごい!! 八重は一躍人気者に・・・
才次郎「八重様は、銃撃つとき眼をとじる癖、なじょして直したのですか?教えて下っしょ」
八重1826
弾の行方だけ追えばいいんだし。ダルマみたぐ目開けでられるよう、これに願かけてみらんしょ

<倒幕のたくらみ>

大山巌(弥助)登場
土佐の容堂公が、慶喜に政権をば返上さすっちゅうから薩摩にも兵をば引けっちゅう言うてきた
八重1808
大山「先手を打たねば・・・期限は神戸が開港する12月7日!やはり朝廷に動いていただかねば。

薩摩と長州
木戸孝允「慶喜が容堂公の献策を受け入れて政権を返上したらどねえします?挙兵の大義が失われる」
八重1813
大久保「こっちも土佐より早く算段をつけねばなりません。朝廷のお力を借ります。」

岩倉の権謀術数
慶喜を殺せとの詔書や。これぐらい激しくあおらんと誰も本気でやらへんやろ。
八重1822

見えなくなっていく覚馬、「おかげ騒動」の人混みで危機一髪

西郷!にしは何を企んでいる!
八重1809
・・・・。
八重1810
ビシィィーン あぶないっ!
八重1811
遠山の金さん!・・・じゃなくて大垣屋がすんでのところで覚馬を助ける 

<尚之助、遂に会津藩お召かかえに>

だんな様、お城からのお呼び出しなじょなぁお話でしたか?
八重1814
日新館砲術師範十三人扶持でお召し抱えと決まりました・・・!!
八重1815

ニコニコ義父「そうか!働き次第では御加増もあんべぇ。忠勤に励むように!」
八重1816
尚之助「承知しました!」          家政婦ミタ?

八重「ありがとなし・・・居候のままでいいど言っでくれで
八重1819
あんつぁまと三郎の居ない家を守るためだべ。お父っつぁまも、ほっとしでだ
会津に来てもう十年です・・・
八重1818
ここは私にとっても住み慣れた我が家なのですよ
八重1817
はい
八重1820
こんなに睦まじいふたりなのに・・・

<慶喜、今日のヤルヤル詐欺>

慶喜「大政を奉還するぞ。政権を握っているから倒される・・返してしまえば討たれる事もない」
八重1823

「なれど、そのために幕府を失ってはどうにもならぬではありませんか412.gif
八重1823b

すぐにやらねばならぬ・・・薩摩が動き出す前に!のるかそるか、ここが勝負どころよ!!
八重1824a
ますます危なげな慶喜の決断に、容保、会津は・・・



八重の桜、こんなところが好き!感想&雑記

「ご公儀も会津も、今のままの世が良いとは思っちゃいねえ。
それは薩摩も長州も同じこと・・・だけんじょ、目指す先が違いすぎる。」

覚馬のこの台詞に凝縮される、崩れた幕府の屋台骨と、対立の一途を辿る 共和政治組と幕政組のせきららさ。

岩倉具視の、踊る権謀術数。
「どこにあるって?あほなことを。作るのや。」
朝敵に対し掲げる錦旗作戦に、日月紋と菊花紋でデザインまで考えていたとは。
こなきじじいに可愛いベレー帽をかぶせたようなお茶目な外見と裏腹に
岩倉、おそるべし。

その岩倉をして知恵者と言わしめた慶喜、そのつどそのつどのひらめいた選択をとる刹那的なギャンブラー、薩摩が将軍打倒の勅書を以て動き出す前に大政奉還を願い出るとは・・・!
朝廷には、政を行う人材も、戦をする兵もないから、政権を返されたとて何もできまい・・・その間に、幕府の巻き返しを図ろうと練る、痛いばかりの孤高の策士、慶喜。
でも、このとき慶喜にあった選択肢はそれしかなかったとも思う。

今度ばかりは本気の慶喜、伸るかそるか、人生最大のヤルヤル詐欺に身を投じる姿を見て慄然とする容保・・・いつも、いっぱい食わされ、利用された挙句 梯子を外されたこともあるこの将軍のために、一体どう仕えていくのか。

けれど、悪いことばかりではない。 容保のために
帰ってきた濃いメン、大蔵に秋月・・・京の顔ぶれも若く頼もしくなりました。
上司に持ちたいNO1,の秋月はん、
左遷された地の果て蝦夷・斜里でも 決して腐らず、海産物の交易で利を得る道を模索していたとは。
交易が莫大な富を生むのを目の当たりにし、会津に海がないかと本気で悩む覚馬にせよ、
骨の髄まで会津藩士なんですね。

大蔵の口から出た、プロイセン、フランス、オロシヤ・・・幕末当時を思わせる国名の響き。考えてみたら、産業革命後の西欧列強のぶつかり合いと国内外に抱えた問題は どこも日本と変わりなく、みな新しい国家への生みの苦しみにあえいでいた時代でした。

「日本が劣っているとは思えない・・・ようは志です」
「しかし、情けねえのは公儀の役人。国の役に立つ人材が入用なとき、肩書にこだわる隠遁姑息さが、公儀を内側から腐らせている」
頼もしい大蔵の言と反対に幕府のダメダメぶりが窺えるエピソード。

そんな、腐りきった幕府でも、ご家訓により最後まで運命を共にせねばならないやるせなさ・・・こんなにも有望な星を抱えていながら、つくづく運のない会津。

世を覆す時代の賭けに翻弄されているとも知らず、二本松の鉄砲少年隊士たちにからかわれる八重と 釈迦に説法のようなやりとりは、見ていてホッコリするひとこまでした。

眼をつむってしまう鉄砲の少年隊士に八重がアドバイスした言葉・・・
「秘訣は、目の事は忘れて、弾の行方だけ追えばいい」

どこかで聞いたと思えば。遠い昔、八重が尚之助から教わったこと・・・
めおと善哉、三つ指をつく姿も板についた八重、本当によい夫婦になりましたね。

また、いまこそ有用な周辺見聞記と反射炉増築の建白書を却下されても 決してめげず、金がなくても出来ることを探し、会津のために次の手を打とうと必死の尚之助。
思えば、この”打たれ強さ”みたいなものこそ、この人の最大の切り札のような。

尚之助の心に残る、あのプロポーズの言葉を思い出します。
「私はここで生きたい。八重さんと共に会津で生きたいのです!」

言葉通り、ずっとずっと睦まじくあってほしい。

連理の枝のように・・・
比翼の鳥のように・・・

嵐の前の静けさのなか、この小鳥のような夫婦を、
安全な巣の中に移してやりたいと思ってやまない、18話でした。




  八重の桜252.gif252.gif252.gifかると 白虎隊の悲劇の真相とは

戊申・会津戦争の犠牲となった、あまりにも有名な白虎隊士の悲劇。
舞台は飯盛山。鶴ヶ城の北東に位置する小高い山です。 新政府軍が城下に侵入してきた慶応4年(1868年)、16~17歳の藩士の少年たちで組織された白虎隊士たちのうち19名が、城下に火の手が上がるのを見て、もはやこれまで、と武士として潔く自刃した。
・・・・と、定説では伝えられてきましたが、
最近になって新たにより詳しい真相や、事実があきらかになってきています。
その事実は、白虎隊士であった飯沼定吉(雄)により明かされました。


飯盛山で自刃したが、一人だけ蘇生し、天寿を全うした飯沼定吉の墓
飯沼定吉の墓


白虎隊慰霊フェスタで偶然お知り合いになった、会津猪苗代の”偉人を考える会”会長及び山岳会会長の江花俊和氏からうかがった、貴重なお話を、この紙面を使って紹介させていただきます。

白虎隊士中2番隊で生き残ったのは飯沼貞吉、西郷頼母の妻・千恵子の甥にあたります。
喉を突き損じて急所を外して人事不省だったのを援けられたました。しかし敵に見つかると危険なので、今の喜多方市の山村に開場の2,3日後ぐらいまで隠れていたようです。
その後藩に戻って謹慎、明治5年に工部省の電信建築技士になり、日清戦争に出征、最後は仙台通信管理局の初代工務部長を務めました。
彼は、ずっーと黙して語るつもりはなかったと言われますが「会津戊辰戦争」の著者・平石弁蔵との手紙で答えていたやりとりから、白虎隊のことが明るみになったようです。

白虎隊士は飯盛山からお城を眺めて落城したと錯覚して「もはやこれまで」と自刃したと伝えれていますが、真相は、「城に向かう敵に斬り込むか」「お城に入るか」を激論の結果、いずれにしても敵に捕まって捕虜になっては武士として恥じであり、主君や先祖に対して面目ない、潔く自刃して武士の本分を・・・17人が自刃したが飯沼貞吉だけが蘇生した。途中で戦死した3人が加わって19人の墓となった・・・ということです。
 飯沼貞吉は、武士の本分を遂げられなかったこと、自分だけ生き残ったことを恥じ、黙して語ろうとしなかったと思われます。それは、会津が朝敵・賊軍の謂われなき立場になっても一言も弁解せずに武士道・義を貫いた
松平容保公と通じるものだと思います。
飯沼貞吉は、開城後は「貞雄」を名を変えたようです。
     
遺詠 往時如夢 「すきし世は夢か現か白雲の 空にうかへるこゝちこそすれ」
                                 
江花俊和氏より


松平容保(かたもり)公弔歌の碑
容保が、白虎隊士のいさおしを歌にした弔問歌
戊辰戦役当時、自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠んだのを、
現加東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたもの。


幾人の涙は石にそそぐとも
   その名は世々に朽ちとぞ思う・・  源 容保 
  
 
あれから140年の年月が流れた今も、若き19人の尊い いさおしは
より深く人々の心に刻み込まれている白虎隊士たちです。

白虎隊慰霊フェスタの記事
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-985.html




235.gif美雨のぷち・八重の桜紀行その⑧
       会津最後の名君・容保の風景をたずねて
235.gif

旅の初め、まずは会津磐梯の氏神さま、磐椅(いわはし)神社にお参り。
大好きないわはし神社にて
以前、ここの宮司様から教えていただいた、九軒町のバス停から、諏訪神社経由で丘を登ってきました


この磐椅神社は昔から会津の人々が畏れ敬ってきた磐梯山、その山頂に祀られた磐梯明神を遷宮した会津で最も古い神社のひとつです。会津藩祖・保科正之公は、亡くなる年にこの社に参拝し「我れ、磐椅神社の末社となってここに埋まろう」と決心し、壽蔵地を自ら定め、その遺言によって土津神社が建立されて祀られました。
鶴ヶ城の鬼門の方角にあたり、ここから会津を護ろうとしれたのです。
八重ブームもあって、土津神社だけで満足してしまう観光客も多いですが、土津公の愛し敬った、磐梯で最も古いこの磐椅神社にこそ、足を運びたいものです。^^

磐椅神社では、また、とてつもない歴史的(?)付加価値も・・・
なんと、1000年の歴史をもつ桜が拝めるのです。その名も、大鹿桜。

いわはし神社の大鹿桜 会津五大桜のひとつ 奈良時代に朝廷から献上もたらされたもの

会津五大桜のひとつ。 社伝によると、平安時代(九四七~九五七)に村上天皇の勅使が磐椅神社の参拝の折に京都から移植したものと伝えられています。ソメイヨシノより濃い色の花が咲き、花弁の数が70以上という珍しい古代種。最初は白、ピンク、そして最後は鹿毛色に変化するという、不思議な桜・・・いにしえの京貴族もこの桜をながめていたのでしょうね。会津・猪苗代の歴史をずっと見続けてきた生き証人のようなこの桜、これからもずっとずっと大切にされて欲しいですね。

ズーム! 今までに見たことない色とボリューミーな美しさ・・・みごとでしょう
花弁の数が70以上という古代種。いにしえの京貴族もこの桜をながめて・・・


磐椅神社の参拝後、川沿いの土津神社へ。近道もあるんですよ。
土津神社では、「保科正之公の史跡を訪ねて(江花俊和氏著)」という素晴らしいガイドマップを
是非いただいてください。


第一代目、保科正之公の墓碑(正之公のみ猪苗代、土津神社に祀られています)
第一代目、保科正之公の墓碑(正之公のみ猪苗代、土津神社に祀られています)
神道式のお墓って初めて・・・亀のような礎は、玄武?さすがは初代、大き~い!

今回、八重と尚之助も見ただろう神体山から見た、猪苗代湖の眺め

土津公(保科正之)がなぜここを墓所に定めたのか、解る気がします


「八重の桜」第一話でも、死して神あがりされた土津(はにつ)公、とあった土津(はにつ)神社。
初日に氏神さまのいわはし神社にご挨拶、旅の安全祈願に土津公(保科公・一代目)の宮と墓所へ。
お優しかった磐椅神社の宮司さま。ひそやかにときめいていく、湖の夕暮れ空。峻厳な気。
ここでも、思わぬプレゼントをたくさんいただきました。
目に見えるもの、目に見えないもの・・・そのすべてが宝のお土産のようでした。
やはり、会津磐梯山は宝の山なのですね。

さて、一代目(土津(はにつ)公の墓所は猪苗代、磐梯山のふもとにあります。德川一代目、日光東照宮を参拝した方なら気付くと思いますが、宮と墓所の配置が、東照宮とよく似ていますね。壽蔵地を自ら定め、その遺言によって墓所を山頂に配置し、建立された土津神社ですが、戊辰戦争で焼失するまでは、社は煌びやかなプチ・東照宮だったとか。でも、私には、四神相応の地を意識した家康公の風水理論を忠実に倣っている正之公の思いが痛いほどに伝わってきて、”德川宗家命!”の代名詞ともいえる会津藩のご家訓をも彷彿とさせるものがありました。

正之公は、鶴ヶ城の鬼門の方角猪苗代から、いまも会津を護っています。



容保も訪れた松平家別荘東山温泉&名湯、容保の墓所を訪ねてきました❤

会津若松駅。どこも、八重さんがいっぱい!
会津若松駅。どこも、八重さんがいっぱい!
循環バス、あかべえに乗り、約20分。会津藩の奥座敷、東山温泉へ

八重の桜でもおなじみ、東山温泉。渓流沿いに湧く温泉の宿は情緒たっぷりです
新滝
代々会津藩主松平家の別荘であった『新滝』。竹久夢二や与謝野晶子の愛した宿です

150年前にワープし、容保のトノに会いたくて、今回、この別館に泊まりました。
八重の桜 でも、覚馬や八重たちが訪れていましたね
容保も入った、松平家別荘「新滝」の自噴泉で、歴史遺産(右)。底の岩盤から湯がボコボコ

戊辰戦争では、傷を負った土方歳三も湯治に訪れ、岩風呂から川に飛びこんだ逸話も。
東山温泉、新滝別館にて 会津郷土料理、最高でした♪会津塗(漆器)がうれしい
会津郷土料理、最高でした♪黑と赤の会津塗り(漆器)がうれしい

おみやげコーナーで真っ先に買いたかった会津絵ロウソク
パラフィンでなく、漆科の実から作った手作りの会津ロウソク。絵付が素敵。
蝋はパラフィンでなく、漆科の実から作った手作りの会津ロウソク。手描き絵付が素敵。



最終日はやっぱり容保公の墓所へ
容保の偉業を掘った、松平家神道式の墓標。いめいは 正面は墓

容保の墓標。最近造られたのかピカピカでした。
容保の墓標。最近造られたのかピカピカでした。しかし、第一代と比べると・・・
一代目サン(5つ上に記載)と比べると、こじんまりとしてしまいますね・・・

容保の神式の諱号は忠誠(まさね)霊神。
。和らくも・・・で松の根のように睦まじくと孝明天皇に歌われたごとく、やはり松に囲まれた廟でした
和らくも・・・で松の根のように睦まじくと孝明天皇に歌われたごとく、やはり松に囲まれた廟でした


二代目からは、(保科家から改名した)松平家の墓所は会津若松へ。東山温泉の入り口、石山に会津のもうひとつの聖域、会津松平家廟はあります。山ひとつ呑みこんだ広さ約15万平方メートルという広大な墓域、全国の大名家でも珍しいそうで、会津藩の威容がうかがえるというものです。

代が下るごと、尻すぼみに墓碑と亀さんが小さくなっていくのが面白く、戊辰戦争の朝敵扱い等も影響しているのかと思うと胸いたむ思いでした。最後の藩主容保は明治26年(1893年)に逝去しましたが、晴れてこの地に移葬されたのは24年後の大正6年だそうです。

思った通り、容保の墓所はどこより若松が青々と美しく茂っていました。
思い出します・・・孝明天皇が容保に贈った、和(やわ)らくもの御製。
帝は信頼のあかしに容保に"和らくも武き心も相生の松の落ち葉のあらず栄えん”と歌ったのでしたね。
「穏やかで勇猛であるそなたの心は実は相生の松の様に根はひとつで余と繋がっている・・・この深い絆は松が落ち葉することなくいつまでも緑なのと同じ」・・・自分と根をおなじくする容保よ、と讃えたのでした。
「松」は松平容保の松にもかけているでしょう。

松平9代、墓碑に刻まれた容保の諱号(亡くなっての神号)は忠誠霊神。
まさしく 幕府に、德川宗家に、そして帝につくした、忠誠の人でしたね。

会津若松、という名は若き容保の生き姿そのもののように感じます。



美雨


会津によく来らったなし 芦ノ牧温泉も来てくニャンしょ 
猫のばす駅長、おめざめ待ちでした♪
会津鉄道の有名猫のばす駅長、おめざめ待ちでした♪


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